【代表コラム】
空き家になった実家を、
まだ「帰れる場所」にする方法。
「究極の安心感」は、帰れる場所があること
人にとって、いちばん深いところにある安心感って、何だろうと、僕はずっと考えてきました。
そして、自分なりにたどり着いたのは──「いつでも帰れる場所がある」という感覚こそが、究極の安心感なんじゃないか、ということでした。
仕事で疲れていても、人間関係で嫌なことがあっても、人生がうまくいかなくても、「最後にはあの家がある」と思えること。実際にはそこに毎日帰れるわけじゃないし、もう何年も帰っていなくてもいい。それでも「ある」と思えることが、人を底のところで支えてくれます。
逆に、その帰れる場所がなくなると──たとえ自分の今の生活が安定していたとしても、なんだか足元が頼りなくなる。「自分はどこから来たんだっけ」「自分の根っこはどこなんだっけ」と、あいまいになってくるんです。
空き家になった実家は、まだ「帰れる場所」です
親が亡くなったあとの、空き家になった実家。誰も住んでいない、片付けも進んでいない、たまに様子を見に行くだけの家。
多くの人は、こう感じています。「もうここは、本当の意味では『実家』じゃない」と。誰もいないし、もう自分の生活もないし、形だけ残っているだけ、と。
でも、僕は違うと思っています。あの家が建っている限り、あれはまだ「帰れる場所」です。ドアを開けて中に入れば、台所も、廊下も、自分の部屋だった場所も、全部そこにある。親はもういないけど、空気はまだ残っている。「実家」としての機能は、まだ生きているんです。
ところが、解体が決まった瞬間、それが永遠に消えます。もう二度と「中に入る」ことができなくなる。空き家のままという状態は、そういう意味で、残された最後の猶予期間なんです。
空き家のうちにこそ、できることがあります
「空き家のままでは何もできない」と思っている人が多いんですが、実はその逆です。空き家こそ、できることが一番多い時期なんです。
誰も住んでいないから、ゆっくり中を歩ける。家具や荷物がそのまま残っているから、生活感が記録に残せる。家族の都合で日程を組める。慌てて決断する必要もない。
これは「親が住んでいるとき」にも、「解体直前」にも、できないことです。空き家という状態だけが許してくれる、貴重な時間なんです。
多くの方が、この時期を「何もしない時間」として過ごしてしまいます。決断を先送りにしている、後ろめたい時間として。でもそれはもったいない。この時期は「ゆっくり残せる」時間でもあるんです。
空き家を、歩ける形のまま残しておくと、何が起きるか
空き家のうちに、家を歩ける形で記録しておくと、家族にこんな変化が起きます。
まず、解体を決める判断が、ずっと楽になります。「もう中に入れなくなる」というプレッシャーから、家族みんなが解放されるからです。「物理的にはなくなるけど、いつでも歩ける形では残る」とわかっていれば、解体の決断は格段に軽くなります。
次に、お盆やお正月に親戚が集まったとき、みんなで「あの家」を歩いて見ることができます。実家がもうないご親戚も、画面の中で家の中を歩きながら「ここがおばあちゃんの台所だったね」「この廊下、よく走ったよね」と、当時の記憶を共有できる。失われたはずのつながりのハブが、データの中に復活するんです。
そして、自分の子どもや孫の世代に、「ここがあなたの曾おじいちゃんが住んでた家だよ」と見せてあげられます。次の世代が「自分のルーツ」を、画面の中を歩きながら知ることができる。これは、紙の家系図とは比較にならないインパクトを持ちます。
父が、VRを見たあとに動き出した話
これは僕の家の話なんですが、参考になるかもしれないので書きます。
祖母が亡くなって、苫小牧の家が空き家になった時期。僕は家族にVRを見せました。父も、最初は「ふーん」という感じで見ていたんです。
でも、しばらくしてから、父は誰にも頼まれていないのに、自分で動き始めました。家の歴史を文章にまとめて送ってきたんです。青森から炭鉱夫として北海道に渡ってきた先祖の話。何世代にもわたる家系のこと。貧しかったけど親戚が支え合ってきたこと。
そのうち、年表を作って送ってくるようになりました。家系図も。先祖の写真も。誤字や年齢の間違いを見つけては「ここを直してくれ」と何度も連絡が来る。父にとって、空間記録のVRは、自分の家族の物語を編み直すための「土台」になっていたんです。
もし僕が空き家の段階でVRを撮っていなかったら、父はこの活動を始めることはなかったと思います。歩ける家がまだあるからこそ、その家を中心にして、家族の歴史を立ち上げ直すことができたんです。
「いつか決めなきゃ」と思いながら、空き家を抱えているあなたへ
「もう何年も空き家のままで、本当はちゃんと考えなきゃいけないのに、踏ん切りがつかない」──そういう人、本当に多いと思います。
その気持ちは、決して悪いことじゃありません。むしろ、その「踏ん切りがつかない」気持ちは、その家を大切に思っている証拠です。事務的に処分できる人より、ずっと健全だと、僕は思います。
ただ、その気持ちを抱えているうちに、家のほうが先に劣化していきます。雪の重みで屋根が傷んだり、湿気で柱がやられたり、防犯上のリスクが増えたり、近隣からの苦情が来たり。いつかは、どこかで決めなきゃいけない日が来てしまいます。
その日が来る前に、ひとつだけ、やっておいてほしいことがあるんです。歩ける形のまま、家を残しておくこと。これさえやっておけば、解体を決める日が来ても、家族みんなが「いつでも戻れる」という安心感の中で、その決断ができるようになります。
解体を急ぐ必要も、無理に「決断」する必要もありません。空き家のまま、自分のペースで進めて大丈夫です。ただ、「いつでも戻れる」という、最後の安全網だけは、家がある間に張っておいてほしいんです。
話を聞くだけで構いません。「撮っておいたほうがいい気がする」──その感覚のままで相談してもらって大丈夫です。
株式会社Leoline代表 畠山 琢

